「神さまの招待」 04.05.02
ルカ14:7〜14
神さまによって世から選び出され、捕らていただき、神さまのもとで
生きる私たちに、主は、婚宴の祝いの席の上席でなく末席に着くことを
お話くださいました。これは、一般的な礼儀作法ではなく、神さまの前で
生きる者の姿勢です。
末席に着くのは、神さまの前では、罪の自覚によって、へりくだり謙遜に
なるしかできないからです。主の十字架の出来事を見つめる時、神の
御子(みこ)に十字架にかかっていただかなくてはならなかった罪の深さを
知らされます。
神さまのもとで生きるものは、神の御子の十字架の出来事から、目を
そらすことはできません。その十字架により、末席に着くしかできない
自分の姿を知らされます。
ただし、末席は、卑屈になって、自分を責め、嘆くための席ではありません。
そこは、神さまから<さあ、もっと上席に進んでください。>との言葉を聞か
される席です。招いてくださった神さまご自身によって高めていただく席です。
十字架の出来事は、十字架を見つめる私たちに、罪の自覚と同時に、罪の
赦しを与える出来事だからです。
主は、続けて「人を食事の席に招待するのであれば、お返しできない人を
招くように」とおっしゃいます。神さまのもとで生きるものは、相手の反応に
敏感になるよりも、神さまの反応(報い14節)に敏感になるべきです。
神さまのもとで生きていながらも、人からの見返りを求める計算、損得勘定で
私たちの心はすぐに一杯になります。それに振り回されて一喜一憂して
しまいます。悲しいことです。
人ではなく、神さまに期待して生きるのです。<弱者を憐れむ人は主に
貸す人>(箴言19:17)との御言葉があります。神さまからの報いという永遠の
事柄を重んじたいのです。
考えてみますと、神さまは、神さまにお返しなどできない私たちを
御許(みもと)に招いてくださいました。
私たちは、この世の損得がすべてではないことを身を持って味わって
います。そこで生きる者とされています。